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飛騨・高山 東照宮・松泰寺の能舞台 1


 「高山市史」に東曜山松泰寺には能舞台があったことが記録されていましたので訪れてみることにしました。今は松泰寺は無く東照宮のみで飛騨東照宮と呼ばれていますが、地元では東照宮より松泰寺の方が通りが良いようです。衛星写真地図

 高山の能舞台は「市史・下巻」によれば、高山城内二之丸にあった金森家六代頼時の母・庭樹院の屋敷内に能舞台があり、元禄年間の「庭樹院殿屋敷図」には能舞台や鏡の間が描かれています。< 高山市史編纂事業 > 高山城下町絵図の(40)「二之丸庭樹院殿屋敷平面図」を参照>。
 その位置は高山城二の丸公園駐車場の最奥の遊具がある辺りになります。

 金森氏は1692(元禄5)年、金森頼時の時に出羽国上ノ山に転封となり、107年続いた金森氏の高山統治が終わりました。なおこの年に頼時、庭樹院によって松泰寺が勧請されて建立されています。
 その後高山は幕府直轄となり、高山城は1695(元禄8)年に徹底的に破却され、庭樹院の屋敷も取り壊されたので能舞台も失われました。
 この能舞台はこの時に庭樹院と縁の深い松泰寺、または他へ移築された可能性はありますが不明です。仮に松泰寺に移されたとしても、代官、郡代が治めた高山では大名の藩と違って、能楽が公式行事として催される機会は少なかっただろうと思われます。

 松泰寺にあった能舞台は何時建立されたのか分りませんが、「市史」の記録だけ見ると1818(文化15)年4月15日の東照宮大改修の翌年の4月17日に、
「御宮御祭礼参詣、今年も諸寺院拝礼之儀御沙汰に付去年之通罷出候也、御祭礼朝之間管絃有之、晝より能狂言有之候」(「加藤歩簫記(紙魚(しみ)のやとり)」 注:加藤歩簫(1743〜1828)
とありますので1818(文化15)年の大改修の時の建立ではないかとも考えられます。さらに「市史」には
「毎年4月17日高山西郊松泰寺の東照宮例祭に際し、奉納能楽の挙式があって、代官或いは郡代等の高山陣屋の首脳を始め、一般同好者の非常な熱意を以て鑑賞したものであった。」
とあり、その後
「1831(天保2)年3月に松泰寺の能舞台を修繕した。」(「松泰寺能舞台普請日記」)
「1836(天保7)年の東照宮祭礼には高山の者のみで能舞した」
ともあります。

 しかし明治以後は他の寺社・各所での演能の記録が少しあるものの、ここで能楽が催された記録は見られないので、徳川幕府の大政奉還による東照宮の衰退、「神仏分離令」などによる松泰寺の廃寺など何らかの影響を受けて能楽堂は失われたものと思われます。詳しくは「陣屋文書」「町年寄日記」などの古文書などにあたらないとわかりませんが、そのことはそれぞれの専門家にお任せすることにしましょう。(2009.10.11)


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