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環濠の村 1 遠里小野


「住吉神社境内領地絵図」(部分) 堺市蔵

 古絵図を見てから気になっていた遠里小野(おりおの 大阪市住吉区 地図 衛星写真地図)の歴史散歩に行ってきました。上の絵図は「住吉神社境内領地絵図」のうち、住吉大社の東に書かれている江戸時代(年代不明、大和川開削以後)の遠里小野村です。ご覧のように環濠集落になっています。環濠集落では稗田(奈良県大和郡山市)、今井(奈良県橿原市)、平野(大阪市東住吉区)、堺(大阪府)など環濠が残っていて有名ですが、この辺りの摂津、河内の村でも環濠をもつ集落があまり知られていませんが沢山ありました。外敵から村を守るのと用水確保が目的でしたが、明治までには大体埋め立てられて道路や農地となり、今では環濠があったことを知らない人もいます。なぜ環濠が一斉に姿を消したのかは分かりませんが、何らかの社会改革があったのでしょう。

 この優雅な名前の遠里小野の村は南北280m、東西320m程で、村の中央を熊野街道が通り古くからの集落であることがわかります。まだここについて勉強をしていないので詳細は分かりませんが、平安期、鎌倉期と思われる文化財や、江戸初期の墓碑などが多くあることから付近の農村より繁栄した村であったことは確かです。また村の南には最近発掘された遠里小野遺跡(発掘資料PDF)があります。

 この絵図をきっかけに、安永7(1778)年の「遠里小野村大絵図(写)」(これらの絵図はいずれも堺市立図書館・デジタル郷土資料を参照)と、明治18(1885)年の測量地図と、現代地図を重ねると環濠のあった場所がはっきりと特定できました。そこでとりあえず現地の下見に出かけた訳です。

 遠里小野村は宝永元(1704)年の大和川の開削で村の南部が分断され、農業水路の流れも変わったはずですが、それでも安永7(1778)年「遠里小野村大絵図(写)」には水濠が存在しています。しかし明治18(1885)年の測量地図では無くなっていますので、この間に水濠は埋め立てられたものでしょう。これだけの水濠を埋め立てるには大量の土が必要ですが、近くの天井川である大和川を浚渫すれば一挙両得になりますからそこから運んだものと思われます。埋め立てが150年ほど前のことと推定して、今では大都市の中に組み込まれているこの村が大きく変貌して環濠の跡は失われているものと思いきや、町内は建物の建替えや道路幅が多少広がった程度で江戸時代から何ら変わっていませんでした。水濠は町を取巻くような道になっていて、そこここに名残の石垣や段差があり、十分に往古を偲ぶことができます。写真でその一部をご紹介します。この下調べで他にもなかなか興味深い歴史も見つかり、今後時間があればさらにこの遠里小野を調べて見たいと思っています。ただこれらは映像化することは難しいようで、これも私の知的遊戯に終わりそうな気配でもあります。(2007.10.17)

今は道路となった環濠跡を青色にしてみました。いずれも右側が集落側です。 2007.10.17  撮影:今駒清則



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