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中之島 大坂蔵屋敷 1

 

 1687(貞享4)年の大坂中之島付近の絵圖を掲載します。翌年の貞享5年(1688年)は元禄元年ですから「慈雲尊者の生誕地 高松藩大坂蔵屋敷跡」で掲載した元禄年間の大坂中之島付近絵圖よりも貞享絵圖の方がやや古いものです。
 比較すると、まずこの付近の堂島川には橋が見られません。元禄期に入ると堂島川と曽根崎川の間を開発する堂島開発が進み、それに伴って堂島川に架橋されました。田蓑橋
(たみのばし)は1693(元禄6)年、玉江橋は不明ですが別の1703(元禄16)年の絵圖にはあることからその頃に架橋されたのでしょう。

 その堂島は貞享絵圖では「新築地」となっていてまだ農地ですが、元禄期絵圖では田蓑橋の北に蔵屋敷などがあり、新茶屋町(遊里)や、玉江橋の北にも舟大工町ができて堂島が市街化された様子が伺えます。
 これは堂島に米市場(後に堂島米会所)が設けられると諸国から水運を利用して大坂へ米が集まるようになりました。それに伴い物産も運ばれて藩の蔵屋敷に収められ、大坂の商人によって盛大に取引されました。それは諸藩の財政運営には欠くことのできない重要な経済活動となり、これによって大坂は繁盛しました。
 堂島川、土佐堀川、江戸堀川、長堀川などには諸藩の大坂蔵屋敷が数多く設けられ、最も多い江戸末期には124もの蔵屋敷があり、特に淀屋常安が開拓した中之島には蔵屋敷がぎっしりと建ち並び、それは明治初期までその名残を留めていました。

 

1687(貞享4)年 「大坂大絵圖」から中之島付近
川は北(上)から曽根崎川(蜆川)、堂島川、土佐堀川、江戸堀川

 中之島に建並ぶ蔵屋敷ですが、貞享と元禄の絵圖では所有者が変わっているところがあります。大名の国替などがあったためなのでしょうか、先に話題にした高松藩(松平讃岐守)、久留米藩(有馬中務)、広島藩(松平安藝守)などは変わっていません。

 

1887(明治20)年仮製地形図から中之島付近 まだ船入が見られる。
曽根崎川(蜆川)は埋め立てられて狭い水路になった。

 1887(明治20)年の仮製地形図を見ると蔵屋敷があった所に船入が残っています。船入とは蔵屋敷の中に造られた池状の荷揚げ場で、荷を運ぶ船が川から蔵屋敷へ直接入れるようになっていました。

 

1929(昭和4)年中之島の地形図 玉江橋から堂島大橋の間に船入の跡が残っている。

 1929(昭和4)年の地形図でも船入の堀があります。堂島大橋南詰めの船入は三菱倉庫になっていますが、現在はグランキューブ大阪が建てられています。

 

「芸州大坂御屋敷全図」と広島藩大坂蔵屋敷発掘調査区
現地説明会資料(水面を着色) 大阪市教育委員会

 広島藩の大坂蔵屋敷の図が残されています。上の図はその屋敷図へ大阪市教育委員会が2001年に発掘した時の区域が重ねて書かれています。
 田蓑橋の南詰にある広島藩大坂蔵屋敷にも船入があり、蔵が周りを取巻き南には御殿や御用屋敷、役人の居住する長屋などが敷地内にあったことが分ります。船入の入口水路は川べりの道を横断するのでそこに小橋が架けられ、また水門も設けられていました。西の隣地は久留米藩大坂蔵屋敷で、発掘時に石垣と溝の敷地境がはっきりと確認できています。

 


広島藩大坂蔵屋敷1/50復元ジオラマ 大阪歴史博物館蔵・展示 2009.3.5 撮影:今駒清則

 大阪歴史博物館の常設展示にこの屋敷図を基にした広島藩大坂蔵屋敷船入の復元ジオラマがあり立体的に見ることができます。
 船入の水中に鳥居があるのは厳島神社を鎮守として祀っているためで、安藝国らしい風情です。また写真手前の木は「蛸の松」です。西隣り
(写真右端)の久留米藩大坂蔵屋敷の堂島川べりには枝を大きく広げた松の木があり、それが蛸の足のように見えたことから「蛸の松」として有名で、明治まであったことから写真も残っています。
 明治維新後、久留米藩大坂蔵屋敷跡には大阪師範学校が建てられ、その後身である大阪教育大学関係の同窓会が「蛸の松」を顕彰して川向こうに松を再現し、「蛸の松」ホームページを公開していますので蔵屋敷や船入が偲ばれる写真や絵などはそちらをご覧下さい。

 


中之島 再現・蛸の松 大阪市福島区福島1 2011.3.7 撮影:今駒清則 (追加掲載)

 堂島川の田簑橋を渡ると下手の川辺に再現された「蛸の松」があります。小振りですがしっかりと枝を張っています。元々は川向こう、写真の「蛸の松」の右手辺りでした。

 


久留米藩(左)、広島藩(右)の蔵屋敷跡 大阪市北区中之島4 2008.12.8 撮影:今駒清則

 久留米藩と広島藩の大坂蔵屋敷跡は中之島の国立国際美術館の北にあり、現在は空き地と駐車場になっていて大阪市立近代美術館の建設予定地です衛星写真地図
 広島藩大坂蔵屋敷は明治維新後に病院が建てられ、大阪の人には「大阪病院」「阪大病院」があった所と言えばすぐ分る所です。写真は国立国際美術館付近から北東を望んだ蔵屋敷跡の風景で、林立するビルもその多くが蔵屋敷の跡に建てられています。

 


久留米藩(左)、広島藩(右)の蔵屋敷跡 大阪市北区中之島4 2022.10.21 撮影:今駒清則

<追記> 広島潘蔵屋敷跡に中之島美術館が建てられ2022年2月2日に開館しました。外壁が黒い建物です。
 美術館の建物は御殿や蔵があった部分に建てられていて、最も重要な舟入の部分は駐車場にして一応保護された形になっています。また西隣の久留米潘蔵屋敷跡にもビルが建設中です。
 
(写真は2008年撮影と同位置・同方向ですが、少し広い範囲を撮影しています。追記:2022.10.21)



黒田藩大坂蔵屋敷の長屋門 天王寺公園内  2012.2.28 撮影:今駒清則

 蔵屋敷を偲ぶ建物としては黒田藩の長屋門を見ることができます。福岡黒田藩大坂蔵屋敷は今の中之島の阪神高速池田線中之島入口の東衛星写真地図にあって、蔵屋敷の長屋門が残されていましたが、中之島三井ビル建築に伴って天王寺公園に移築し公開されています。蔵屋敷の往時を偲ぶ建物はほとんど無く、それだけにこの長屋門は貴重な存在です。
 以前は大阪市立美術館へ行く時にこの門を通って行ったものですが、天王寺公園の改修によりフェンスで塞がれてしまい、前のように通り抜けはできなくなりました。
(2010年5月4日)



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