なごりすとのページ TOP  今駒清則のお知らせページ HOME

京街道 1 京橋駅付近


 京街道は大阪城の北西にある京橋(公儀橋)を始点として京都に至る重要な街道ですが、まず寝屋川(旧大和川)の京橋を渡り、鯰江川と寝屋川に挟まれた片町を通って鯰江川に架かる野田橋(公儀橋)を渡り、鯰江川沿いに進んで、現在の京阪京橋駅付近で北上し、守口からさらに先は淀川に沿って京都に向かいます。

京橋から野田村付近  1657(明暦3)年 「新板大坂之図」

 江戸時代初期の絵図で、下の大坂城京橋口から「京はし」を渡り、街道の片側に家並が並ぶことから片町と呼ばれた京橋片原町(後に相生西町、相生東町)を抜け、その先で鯰江川を渡りさらに右へ続く道が描かれています。
 城や家屋などが丁寧に描かれた絵図で、鯰江川の中に「京かいたう」とあり、京街道が記載された最も古い絵図と考えられています。「京橋」の名はありますが、右の「野田橋」の名は標されていません。この時の鯰江川は大川(淀川)に流れ込んでいるようです。

京橋から野田町付近  1687(貞享4)年 「大坂大絵図」

 貞享の絵図ですが、大坂南部に新大和川が開削される以前のものですから「京橋」は「大和川」に架かっています。この「大和川」は現在の寝屋川になります。
 「鯰江川」の野田橋は「小はし」とあり、京街道は「京海道」と書かれて「野田村・野田町」には街道沿いに家並が続き、「京海道」と標された先にはこの絵図外ですが「門代村」の「一里塚」が描かれています。京街道の途中から「鯰江川」に沿った大和街道(「大和海道」、古堤街道とも言う)が分かれて蒲生方面へ延びています。なお鯰江川の合流点に導流堤が造られて大水時の逆流を防いでいます。

京橋から野田町付近 1688〜1704年 「元禄年中大坂東西南北町嶋之圖」

 元禄時代の絵図です。この絵図だけ読みやすいように東を上にしました。
 大坂城「京橋口」から「京橋」、「片はら町」、「鯰江川」を「小はし(野田橋)」で渡って「野田町」への「京海道」と「大和海道」が描かれています。
 「片はら町」と書かれた片町はこの後の1708(宝永5)年に京街道の両側に家が並ぶようになり相生町と改称されます。興味深いのは「鯰江川」で川魚の漁をしているのが描かれていることです。また幾つかの図には野田橋を渡った所に大きな建物があるのですが現在のところ何なのか不明です。

 (追記 「野田橋を渡った所に大きな建物がある」のは、このあたりに「大長寺」があったことが分りました。この「大長寺」は1912年(明治45年)に、北へ300m程の中野2丁目1へ移転し、その跡は実業家の藤田邸となり、現在では太閤園や藤田美術館などになっています。
 なお、「大長寺」で遊女・小春と紙屋治兵衛が心中し、近松門左衛門が浄瑠璃「心中天網島」として脚色・公開され、その人気から同寺に「小春・治兵衛の比翼塚」がありましたが、寺の移転と共に「比翼塚」も移されています。)

京橋から野田村付近  1806(文化3)年 「攝州大阪地図」

 江戸時代後期の地図で、新大和川が通じた後なので大和川は狭くなり「古大和川跡井路川」と標され、そこに架かる「京橋」は「長五十間三尺八寸廣三間」、「鯰江川」に架かる「野田橋」は「十五間五尺五寸廣二間」と橋の大きさが記載されています。
 「京橋」を渡った左側の川辺には「川魚市場」があり、大川や鯰江川で漁をした川漁師が船を着けて魚を揚げ、そこでは鯉、鮒、鰻の順に取引され、最後がスッポンの取引に決まっていました。このことから間に合わないことを「スッポンの間にも合わぬ」と言ったそうです
(摂津名所圖繪)
 その先にある「鯰江川」の「備前島橋」
(公儀橋)を渡ると、大川を船で渡す「川崎渡」場があります。この頃には「鯰江川」は大和川へ流れ込むようになっています。
 「京橋」から右へ京街道をとると●●で標された家並の中の「相生西之町」「相生東之町」(注記に「片町ト云」)を通り、「明和元年甲申
(1764)新建家」とある家の所で「鯰江川」を「野田橋」で渡り、家並の続く「野田丁」を行くと「野田村之内坂口」で大和街道が東へ分かれ、京街道は「榎並水道」に沿って北上しています。

京橋から野田村付近  1887(明治20)年 旧版地図に主な河川と橋、街道を彩色

 明治の旧版地図では測量が行われてかなり正確な地形図になります。この時辺りまでは江戸時代の姿を留めているところに資料的に価値があります。
 この付近は後に幾つかの鐵道が敷設されて交通の要所になるのですが、この地図にはまだ何もありません。また大川に架かる桜宮大橋も国道1号線(京阪国道)もまだ無く、天満方面に行くのは1877(明治10)年に「川嵜橋」が架けられたのでそれを渡ったのでしょうが、この地図が発行された時には洪水で流されて失われていたようです。
 (追記:この付近に後に敷設される幾つかの鐵道の変遷を地図上から見てみようと準備したのですが、すでに同様のもので優れたホームページがありましたので見合わせます。「Walk a way!!」の「片町駅のない片町線」で、この明治20年地形図に続く1899(明治32)年以後を掲載しています。)
 この頃の京街道の起点は京橋でなく高麗橋になり、鯰江川はよく水運に使われているようで、野田村の大和街道との分岐点には船からの荷揚場らしい施設が造られていますが、周囲はまだ一面に田畑が広がっています。

京街道、大和街道地図 大阪市・京橋〜京橋駅 Google Map


より大きな地図で 京街道 を表示

 現代地図へ1887(明治20)年の旧版地図を正確に重ねて新旧の位置関係を確認し、Google Mapで作成したものです。茶色は街道、赤色は橋、青色は鯰江川跡です。
 この付近の京街道は景観こそ変われ道筋はそのままに残されています。街道に沿っていた鯰江川は埋め立てられて野田橋付近の東は道路に、西は京阪本線の軌道になってしまい現在はその痕跡はありません。従って野田橋も無くなっているのですが道路にはその名残りが残されています
(下の地図参照)。野田村は現在東野田町となり、京阪本線の南を通っている京街道は京阪京橋駅を通り抜け、新京橋商店街、京橋中央商店街のアーケードへ抜けています。そして偶然でしょうか必然でしょうか、京阪京橋駅は大和街道(古堤街道)との分岐点にあった荷揚場らしき所に建てられています。

野田橋の位置 現代地図に京街道を書き込み  Mapion地図ガキ」使用

 上の地図で野田橋があった所の拡大です。青色は鯰江川が流れていた所。赤色は野田橋が架かっていた所に相当します。今はごく普通の道路ですが、大坂と京とを結んでいた重要な橋の名残りです。そのうちにこの辺りを歩き写真で見ていただこうと考えています。(2010.1.5)(続く)



このサイトにあるすべての写真と文には著作権や肖像権があります。無断転載をお断りします。