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堺市街の東、三国ケ丘を南北に通る広い道路(衛星写真地図)があります。けやき通りと呼ばれていますが、この道の西には方違神社と田出井山古墳(伝反正天皇陵)などがあります。 この通りの西側歩道上に大阪府指定天然記念物のクロガネモチが痛々しい姿を見せています。上部は折れ幹は補修され支柱で支えられていますが、それでも手当ての甲斐があったのか良く繁っています。 この樹のかたわらに説明板があり、そこには「(前略)大阪府下で指定をうけるくろがねもちは堺の二例を数えるのみで、なかでもこのくろがねもちは径・幹周が最も太く、そのひからびた樹皮からもかなりの年輪をもつ巨樹であるといえます。この地はかっては方違神社の参道脇にあたり、現在は樹勢にもやや衰えがみえるこの木も、当時は豊かな緑につつまれていました。/平成四年三月/大阪府教育委員会/堺市教育委員会」とありました。 ここでンンっと思ったのは「この地はかっては方違神社の参道脇にあたり」というところで、最近この付近について調べていたこともあって、そうだろうかと思い、帰ってから調べて見ました。
まずはこの付近の地理で、例によって江戸時代頃から始めます。 「文久三年改正堺大絵図」(1863年)を見るとこの付近には牛頭天王と書かれた古社の向井神社があります。そして北西に隣接して方違神社、西には田出井山古墳(伝反正天皇陵)と陪冢の鈴山古墳があります。神社がこれほど隣接してあるのは珍しいことで、この地が百舌鳥古墳群の北西端で埋葬の地であること、行基の伝承や、古は海に近く、熊野街道や長尾街道も近くを通っていて古代からひらけていたこと、住吉大社の圏内にあったこと、などからそれぞれの意味をもって二社が存在していたのでしょう。 特に向井神社は百済の王仁を祀り、また田出井山古墳は王仁の墓であるというような俗説もあったりして興味深いのですが、ここでは神社の由緒でなく、このクロガネモチがどうであったかを検証してみます。
上の絵は「和泉名所図会」(秋里籬島著、竹原春朝斎画)1795(寛政7)年ですが、そこに描かれた「東原天王」と題されたのが向井神社です。 この「和泉名所図会」の古墳を描いた他の名所は、古墳や旧跡の位置関係が誤っているものが見られて実地調査して描かれたものか疑われるものがあるのですが、この「東原天王」は実に詳細に描かれていて信用してよさそうです。 右端に鳥居があり、参道が南から北へ続いていて、桜並木(推定)を進むと小川があり、これを小橋で渡ると今度は松並木の下を神社に向います。神社の前を横切る道は左に行けば鈴山古墳を通って田出井山古墳(伝反正天皇陵)に至ります。 神社入口には四脚門があり、そこから境内奥の社殿まではこれも一直線に桜並木(推定)となっています。途中の右には池や木立があり、左には方墳の天王古墳が見えます。 ただ現在この神社はまったく存在していません。しかしこの絵と地形図とを比較するとかなり符合していますので、それはまた後で述べることにします。 (2008.2.7)(続く)
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