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クロガネモチと向井神社 2

 1868(明治元)年、「神仏判然令」があっって神仏分離によって歴史的に重要な寺院も随分と潰されました。また1906(明治39)年から始まった一村一社の「神社合祀令」によって神社総数は約半分になりました。

 この向井神社もこれに従い、ご祭神は方違神社に合祀され、神社は消滅させられています(合祀されたご祭神は方違神社ホームページの「御祭神」をご覧になると「向井大神」として合祀されています)

 神社合祀については熊野街道にあった王子社の多くがこのために消滅していますし、南方熊楠も合祀に対して猛烈な反対論を展開して有名です。明治期は天皇制国家確立のために宗教政策が強引に推し進められたので歴史的に相当な混乱を招いています。

 明治末に廃絶した向井神社は大戦前後頃に住宅地となって今は現地にはなんら名残を留めていません。

 

 そこでいつもの通り地形図を利用してそれぞれの位置を確認してみました。1888(明治20)年(明治地形図と呼ぶ)、1929(昭和4)年(昭和4地形図と呼ぶ)、現在の地形図を重ねて必要な部分だけを抽出して作図しています。また衛星写真地図もご参照下さい。

 黒線は現在の市街地、緑色は古墳、水色は水面、茶色は1888(明治20)年地形図にある道、黄色は神社(向井神社は明治、方違神社は現在の社域)、赤印は主題のクロガネモチの位置です。

 「和泉名所図会」による向井神社参道の南端にある鳥居の位置は現在の旧天王貯水池の南東角になります。そこから拡張された現在のけやき通りを北に進むと次の辻が小川が流れ小橋が架けられていた所、さらに進むと向井神社前の道に至ります。道を左(西)にとれば鈴山古墳から田出井山古墳(伝反正天皇陵)に行きますが現在は住宅の中の道です。

 神社のあった所は今は住宅地や駐車場となっていて進めず往古を偲ぶことはできません。しかし神社の西側を迴る道を行くと、かっては神社の中にあった天王古墳が右にあります。これで「和泉名所図会」と参照すればおおよその位置関係が掴めます。

 

旧向井神社の境内側から見た天王古墳 2008.2.2 撮影:今駒清則

 さらに進むと西に折れて「和泉名所図会」にあった方違神社への道になります。大正期頃の住宅地整備によって多少位置は変わっている(明治地形図による)ようですが、方違神社の南入口まではもうすぐです。

 一旦戻って、向井神社の正面から入ったとして、明治地形図で様子を見てみましょう。
 この明治地形図ではまだ向井神社は存在していたはずです。神社本殿に向かう境内の参道
(茶色)は明治地形図に書かれています。

 左に天王古墳(緑色)、右にこの主題であるクロガネモチ(赤印)がある辺りです。「和泉名所図会」では池や立木のあった神苑辺りになります。神社神域で境内参道の東側が広くなっているのはこの神苑や社務所があったためですが、明治末に神社が廃絶された後、永らく空き地となって石碑や樹木だけになっていたようです(昭和4地形図による)。

 1965(昭和40)年になると南の竹ノ内街道から北の長尾街道を南北に結んだ、けやき並木の広い道路が建設されました。それまでの向井神社までの参道は道の東側が拡張され(けやき通り西側の旧天王貯水池付近の樹木は旧参道の樹木の可能性があります)、旧向井神社境内の東端を使って北に延長されたのです。そこで神社入口付近の道は旧道から東にそれて神苑や社務所があった所がけやき通りになりました。

 主題であるクロガネモチは(多分移植されていないと思いますが)この時にけやき通りの歩道上にかろうじて残ることにことになったのです。それは貴重な樹木であったが故に残すよう配慮されたことなのでしょう。

 従って行政の説明板はあまり適切ではありません。クロガネモチが本来あった場所の説明には「この地はかっては向井神社の境内にあたり」とした方がよいのではないでしょうか。ただし、向井神社が明治末の廃絶から永らく空き地となり、旧向井神社境内の参道が方違神社へ通り抜ける道になっていた可能性があります。その脇にあったクロガネモチですから、明治末からだけを考えれば「方違神社の参道脇」と言うのもあながち誤っている、とも言えませんが、それは歴史的にみていかがなものでしょうか。

(2008.2.8)(続く)



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