堺市の阪神高速道路湾岸線・大浜料金所へ入る直前の左側には低い石垣が続いているのが見えます。
右側は堺旧港と木造燈台があります。この石垣は大浜公園の外郭になるのですが、それが幕末の黒船対策に造られた台場の跡であることは知っているのですが、それがどこまでのものなのかを確かめるためです。
麓から見た蘇鉄山の登山道。もう山頂が見えています 1997.11.4 撮影:今駒清則
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まずは大浜公園に入って公園事務所の横から蘇鉄山に登ってみます。
蘇鉄山は1879(明治12)年に台場が払い下げられた後、公園として整備する時に人工的に築かれました。これは台場に築かれていた土塁を取り除いて西側に平地を広げるために、平削した土塁の土を積み上げたのがこの蘇鉄山になったのではないかと私は考えています。
その後、近くにあった御陰山を平削した際に、そこにあった一等三角点をこの蘇鉄山に移しました。一等三角点をもつ山では日本一低い山で、高さはなんと6.9mの低山ですから、麓から山頂までは1分で登れます。国土地理院発行の2万5千分の1地形図・堺〔北東〕にはしっかり記載されています。しかもこの山を登る「蘇鉄山山岳登山会」なるものもあります。
山頂にある一等三角点の標石 1997.11.4 撮影:今駒清則
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この蘇鉄山の山頂の一等三角点です。なお近くの大阪市にある天保山も二等三角点をもつ築山で高さは4.5m、国土地理院発行の2万5千分の1地形図・大阪西南部〔北西〕に記載されている立派な山で日本一低い山です。
南台場の石垣と土塁(南外面) 1997.11.4 撮影:今駒清則
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さて本題の台場ですが、黒船に備えて幕府は大砲を備えた台場を各地に造らせました。
堺では1854(安政元)年に堺湊(現在の旧堺港)の南側に築造、翌年に水路を挟んだ北側にも北台場を築きました。 南台場は1864(元治元)年に改築し、周囲の一部に水濠を掘り、石垣で固めた土塁を回らせた中には海に向けた大砲と火薬庫、番所などがありました。
参照古図絵は堺市立図書館・デジタル郷土資料展をご覧下さい。その「8.堺新御台場図(写)安政2年(1855)」は北台場(図絵では北が左になっています)。「9.堺浦海岸砲台築造図絵(写)元治元年(1864)」は南台場(北(子)が右になっていますのでご注意下さい)です。この9の図絵が現在の大浜公園(衛星写真地図)の東半分に相当します。
上の写真の「南台場の石垣と土塁」の位置は、大浜公園の南東端付近にあり、北台場は衛星写真地図に「大浜北公園」と書かれた付近の緑地になります。この南台場の土塁の南には水濠があり、現在もその名残があります。
堺市がその水濠を庭園風にして花などを植えていますが、水利が良くないのか水が死んでいて、植物も生気が無く、手入れも悪いのでかえって見苦しい景観になっています。ここはその役目がわかるように単に掘であったほうが良く、無駄な経費を使っているように思えます。
台場の土塁は高さはありますが、大方は崩れて低くなり、内側は明治末からの繁盛期に公会堂などの建物が建てられたため土が採られて平地になっています。(2007.11.4)(続く)
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