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2 斜めの家並


京都。東山三条付近 東姉小路町  Googleマップ


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  Google Mapの衛星写真から見ると不思議な家並が見えます。時々出かける京都市岡崎の能楽堂・京都観世会館への通り道にあり、三条通の東海道に面しています。古川町(現・地下鉄東西線・東山三条)附近の道を歩いていてもこのことは分からないのですが、衛星写真からははっきりと分かります。京都のように整然と区画された家並からすれば斜めになっていて不思議な並びですが、これは道が使われなくなって、そこに住宅が建てられたのだろうとまずは推測できます。
 さて、この東姉小路町の道の跡と思われるところですが、三条通から斜めに上がっているものの京都文教学園で止まっています。しかし所々で道は消えていますが、なんとか蹴上までたどることができます。そこで江戸、明治、大正、昭和の地図を引っ張り出して調べてみました。


1690(元禄3)「東海道分間之図」部分

 絵図の上方が北、左は東海道の終点の鴨川の三条大橋で、右へは粟田口から蹴上、大津へ続きます。三条通の東海道に沿って街道の家並が続いていますが、三条大橋から中央の白川までに北へ向かう道はありません。


1696(元禄9)年「京都大絵図」部分

 同じ頃の絵図で白川を東海道が渡る左の古川町辺りから北へ斜めに延びる道があり、問題の道のように見えますが、以後の地図でわかりますがこの道ではありません。多分古川町を通る古川町通(若狭街道)のようです。



1862(文久2)年「新増細見京繪圖大全」部分

 白川と東海道が交差する左が古川町で、古川町通(若狭街道)が北に延びています。この附近から蹴上までの道は三条通のほかに無いので斜めの道は見当たりません。


1890(明治23)年「京都陸測地図」部分

 明治になって正確になった地形図にもこの斜めの道は見当たりません。またこの地図の測量時(1890年・明治23年)に完成した琵琶湖疎水やインクライン、1895(明治28)年に開催された内国勧業博覧会会場(後に平安神宮)や東山通もまだありません。



1913(大正2)年「京都市街全圖」部分


1913(大正2)年「京都市街全圖」部分 古川町付近

 この地図では中央に赤い点線で、三条通から斜めの道が右端の蹴上まで通っています。この地図が作成された前年の1912(大正元)年8月に京津(けいしん)電気軌道が三条通の古川町から札ノ辻まで開通しているからです。つまり斜めの道は鉄道の跡であった訳です。この時の京津線は最短距離である三条通を通れない何らかの事情があり、三条通の家並の北裏に敷設されたようで遠回りになっています。ただしこの1913(大正2)年地図には三条大橋から古川町までの京津線の印があることで、そこに京津線が敷設されたのは1923(大正12)年のことですから変なのですが、地図に記載してある初版発行が1913(大正2)年で、その後に改定発行された地図と考えれば納得できます。


1913(大正2)年「京都市街全圖」裏面の京津電車広告

 大正初頭の京津電車(京津電気軌道)の広告です。京都・大津間の賃金(運賃)が片道17錢、往復28錢となっています。京都の駅は三条大橋、古川町、応天門通(神宮道)、広道(岡崎)、蹴上の順で、大津へ続いています。
 京津電車はこの後、1924(大正13)年に京阪電気鉄道と合併、京阪京津線になります。


1924(大正13)年「京都衛戍地図」部分

 京津線が三条大橋から開通した翌年の地形図で、京津線がわかり難いので赤の点線を加筆しました。また河川も着色しています。この「京都衛戍地図」はあまり正確でなく、京津線が三条通から斜めに北へ曲がっているはずなのに直角近くになっていて、これでは電車が曲がることができません。なお、三条大橋の西側に高瀬川の船入がまだ幾つか地図上に残っています。



1938(昭和13)年「京都陸測図」部分

 問題の京津線は1931(昭和6)年に古川町から北へ曲がっていたのを三条通に移したため、京津線の跡は道路や住宅となり、すでにこの頃でも一部がたどれなくなっています。前の1890(明治23)年京都陸測地図と比較してご覧下さい。
 結局、斜めの家並は大正元年に京津線の鉄道が開設された時の軌道跡で、昭和6年にこの軌道が三条通へ移された後に道路や人家となったその鉄道が残した名残だったわけです。不思議な家並の謎を解き始めたら鉄道史が浮かび上がってきたという地図の楽しみです。(2010.1.3)



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