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飛騨・高山 高山の墓地 無名氏之墓 2


飛騨・高山 北ヶ洞墓地 無名氏之墓 2008.4.17 撮影:今駒清則


 墓碑にある碑文は以下の通りです。

 「閏四月十二日小児一人薦包に致し新町河原に抛(ほうり)捨有之候 当国のものか他国のものか相分らす候得共 貧窮に迫りて致し候事と相見え誠に可憐の事に候 大政復古視民如子天下の民一人も其所を失はさる様と深く被思召候折柄 拙者当国の人民を預り不行届より右様非命に死し候もの有之 全く拙者相殺し候訳に相当り 上は対朝廷、下は国民に不相済次第 其罪逃るへからさる事に候 因て既往の事致方無之 聊(いささ)か葬祭の印を致し墓を建て其霊魂を慰し且謝し候也 / 慶応四年戌辰七月 罪人 速水 建之」
  (碑文は「高山市史・上巻」より転記、読みやすくするためにふりがなとスペースなどを追加)

 高山県の初代知事として1868(慶応4、明治元)年に赴任した梅村速水は、高山の河原に薦に包んで遺棄されていた女児があったことを知り、政治の至らぬことからこのようなことがあるのは我が罪である、として謝罪、「無名氏」としてお墓を建て慰霊したものです。

 梅村速水は明治新政府の改革を急進的に行ったがために保守的な町民と軋轢が生じ、1869(明治2)年には「梅村騒動」という一揆が起き、その責任で免職、翌年収監されたまま29歳で病死したといいます。「梅村騒動」については江間修が小説「山の民」(春秋社)を著していますが、この「無名氏之墓」の碑文の「速水」の2文字が叩き潰されていることからも高山町民の怒りが偲ばれます。新政府の先鋒となって若干27歳の知事が地方で為した施策は功罪が多々あったのでしょうが、その意気込みだけは現在の為政者が見習うべきものがあるのではないかと思うのです。(2008.4.20)


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