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クロガネモチと向井神社 4

 

 堺市のけやき通りにあるクロガネモチの木で大阪府教育委員会、堺市教育委員会の説明看板に「この地はかっては方違神社の参道脇にあたりとあったので、新旧の地形図上から検証して2で以下を掲載しています。

 (前略)従って行政の説明板は誤っているのではないでしょうか。クロガネモチが本来あった場所の説明には「この地はかっては向井神社の境内にあたり」とした方が適切でしょう。ただし、向井神社が明治末の廃絶から永らく空き地となり、旧向井神社境内の参道が方違神社へ通り抜ける道になっていた可能性があります。その脇にあったクロガネモチですから明治末からだけを考えれば「方違神社の参道脇」と言うのもあながち誤っている、とも言えませんが、それは歴史的にみていかがなものでしょうか。

 その後に旧向井神社境内にある天王古墳の説明看板を見ると次のようになっていました。

(前略)向井神社は行基の開創と伝えられる向泉寺が別当で、向井領の氏神として広い境内でしたが、明治末年に方違神社に合祀されました。境内中央にあった常緑広葉樹クロガネモチは、胸高径1.1m、幹周3.5m、樹高12mの巨木です。樹齢400年以上と推定され、大阪府の天然記念物に指定されています。(東方50mの市道の西側歩道上にそびえます。)/堺市

 この説明ですと何の問題もありません。ほんの近くにある説明看板に矛盾した説明があるわけで、多分担当部所で見解が違っているのでしょう。

 


旧向井神社参道の松か? 2008.4.3  撮影:今駒清則

 今のけやき通りはその名の通りケヤキ並木です。ケヤキは通りができた1965(昭和40)年に植えられたものですが、そこに一本だけクロマツがあります。三国丘交番の前にあり、「和泉名所図会」で見ると参道の小橋のたもとになります。このクロマツは樹齢からいっても旧向井神社の参道のものと考えてもおかしくありません。「和泉名所図会」では桜並木(推定)になっている所ですが実際はこのあたりは松並木だったのかもしれません。

 


伝向泉寺・閼伽井 2008.4.3  撮影:今駒清則

 このけやき通りを南へ、竹ノ内街道に近い所の榎元町五丁衛星写真地図に向泉寺の閼伽井と伝えている史跡があります。

 向井神社、方違神社の別当をつとめた神宮寺で、三国山遍照光院向泉寺といい、743(天平15)年にここ三国丘に行基が仏さまにお供えする浄水の閼伽井を掘り、その周りに大堂宇を造ったと伝えられていますが、永正年間(1504−21)の戦乱で焼失、堺市市之町東に移転しましたが明治期に廃絶しています。

 写真はその中心にあった閼伽井と伝えられているものですが、最近に樹木を剪定したために今年のサクラは少々寂しい姿となっています。相当な規模であったといわれる向泉寺ですが、今は住宅や学校などになっていて現地で偲ぶものはこの閼伽井と方違神社境内の灯籠でしかありません。発掘調査も行われましたが確定できるものはなく、ここから北にある三国丘高校あたりまでが寺域であったであろうと推定されています。

 


方違神社境内の灯籠 2008.4.3  撮影:今駒清則

 地元にあった榎・向陵開発協議会が1995年に発行した「行基菩薩と向泉寺」という本には往時の姿が掲載されていて、竹ノ内街道から北の長尾街道までが向泉寺一円として描かれていますが、あくまでも推定のもので確証があって描かれたものでは無いようです。ただ方違神社には「向泉寺縁起」があり、堺の新在家町東3丁にある真言宗発光院におられた十ー面観世音菩薩像の「方違観音」さまは向泉寺の本尊であったといわれていますが、堺空襲で焼失してしまいました。

 


向井神社跡、旧向泉寺推定地付近 航空写真(クリックで拡大) 2000  撮影:今駒清則

 今までの内容を含む地域の航空写真です。大山陵上空から北方を望んだもので鉄道、旧街道なども記入しています。

 この三国丘は摂河泉の境であったというだけでなく、北方の住吉大社、熊野街道、境王子、長尾街道、方違神社、向井神社、向泉寺、竹ノ内街道、そして周辺の天皇陵・大王墓群、西方の堺の湊と歴史的に不思議なつながりを持っている所のようで、もっと注目されても良いところではないかと考えています。

(2008.4.11)(クロガネモチと向井神社・



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