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これでクロガネモチの場所のことはわかりました。今は無い向井神社の名残はクロガネモチだけなのだろうかと、合祀されたすぐ隣の方違神社に行ってみました。
上の絵図は「和泉名所図会」の方違神社の頁です。左下の長尾街道から曲がった参道を行くとすぐに西向きの方違神社があります。その右奥には大山陵と書かれた濠に囲まれる古墳、さらにその奥に小さい楯井陵と書かれた古墳があります。方違神社は現在とほぼ同じです。今は長尾街道からすぐに入れるようになっていますが往時は田の中の道を進んだのでしょう。神社が西向きにあるのは住吉大社と同じく海の方に向いているためだろうと思います。
問題は大山陵と書かれた古墳ですが、これが大山陵(伝仁徳天皇陵)とするとあまりに近すぎます。方違神社から大山陵までは電車で一駅ほど、約1.3Kmもありますし(衛星写真地図)、この図会ではこれほど離れていればもっと霞んだ描き方とか、直線の短い道などは描かないのですから離れている大山陵(伝仁徳天皇陵)とは思えません。かわりにこの位置に相当しているのは田出井山古墳(楯井陵、伝反正天皇陵)です。現在では方違神社境内の南端と田出井山古墳とは接していて境内から古墳が良く見えます。
そうするとその左に描かれている小さい古墳は田出井山古墳(楯井陵)ではなく鈴山古墳になります。もし図会の通り田出井山古墳(楯井陵)とすると水濠が描かれていないのは変です。また幾ら大山陵(伝仁徳天皇陵)が大きいといってもほんの近くにある田出井山古墳(楯井陵)が離れて小さく描かれるのは不自然ですのでやはり誤りなのだろうと思います。 方違神社から向こうへうねってのびている道は隣の向井神社に行く道で、かなり正確に書かれていますが、道の左側に向井神社が描かれていません。それは前にここへ掲載したように図会の別頁に向井神社があるからで、それに続く感じを持たせている作者の工夫です。 話が逸れてしまいました。方違神社に合祀された向井神社ですが、神職にお訊ねすると別な社殿があるのではなくて方違神と同一に向井神としてお祀りしておられるとのことです。
方違神社の境内に向井神社のお社があるわけではないことが分かりましたので、なにか縁のものがないか境内を探してみました。すると「向井神社」と刻まれた標石がありました。向井神社の入口に建てられていたものでしょう。1905(明治37)年12月建立とありますが、その後に廃絶してしまったので建てられて10年足らずで役目を終えたことになります。
さらに近くには棹石に「寛永元年・・」「三国山牛頭天王・・」と刻まれた燈篭がありました。なかなかかたちの良いものですが残念なことに上部の宝珠がありません。火袋は日月の意匠です。寛永元年は1624年ですから江戸初期の古いものです。 またこの行基の井戸は相当に珍重されたようで、この付近には「向泉寺」「向井」「田出井」など井戸にちなむ名称も多いのです。それにしても方違神社にいろいろある石造物はただ無造作に置かれているようで、写真でもわかるように真っ直ぐに建てられていないものもあり、もう少し気持ちを入れた扱いがいただきたいものと思いました。
けやき通りのクロガネモチの木からいろいろと話が飛んでしまいましたが、所在についてはまあ一件落着だろうと思います。歴史学者ではないので歴史資料・文献・論文にはほとんどあたっていません。現地主義で、それに地図からのアプローチです。それにしてもこういうテーマでは映像化するものが無くそこが泣き所です。 (2008.2.10)(続く)
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