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途切れた道 3 下高野街道


「あま岸」を示す道標 2008.3.24 撮影:今駒清則

下高野街道の道標(右側)
右の写真はその部分

 この新川を越えるのには渡し舟を使っていました。この渡しはどうも「天岸(あまぎし)の渡し」と呼ばれていたようです。ただしまだ文献また地元の方からの確認はとれていません。これもそのうちに何かで確認できるとは思いますが、これはこの渡し場付近が江戸時代に「天岸」と呼ばれていたからです。写真は阿麻美許曽神社の南(天美東8、航空写真地図、下高野街道にある道標で、このように記されています。

   <表面> 右 志ぎ山 八尾 ひらの 三宅(村道)
        左 天王寺 あま岸(道)
   <裏面> すぐ 高野山 狭山道/我堂村 嶋谷安兵衛

         注:カッコ内は隠れている文字

 この道標から下高野街道を北へ向かうと阿麻美許曽神社を越えて大坂・天王寺に至ります。この道標にある「あま岸」の「あま」は阿麻美許曽神社の「あま」か、この地域の天美の「あま」を指すのかはわかりませんが、いずれも場所の略読みで、「岸」は新川の岸を意味しているものと思われます。というのは、古来から大坂と大和や河内東・南部との運輸には大和川の船便が使われていました。新川ができるとそれまで使われていた旧大和川の航路は衰退し、帆をつけた剣先船が新川を往来するようになりました。その船着き場の一つが阿麻美許曽神社の所で、天岸の剣先船問屋・七郎兵衛(東大阪市・栗山家文書)の荷物を扱ったものと思われます。この船着き場が「天岸」で、渡し場でもあったようなのです。なお、阿麻美許曽神社の由緒書には「(当社は)俗に『阿麻岐志の宮』と呼ばれ」とありますが、この「阿麻岐志の宮」の「あまぎし」から「天岸」と呼ばれたのではなく、逆に「天岸」にあるお宮さんなので「あまぎしの宮」と呼ばれたのではないかと考えています。

 この付近も古代からの遺跡が多いのですが、歴史的には断片的で謎が多く、地図や史料にあたって推理小説を読むよう気楽に考証推理するととても面白いのです。この阿麻美許曽神社の西には幻の「依羅(よさみ)池」や、最近の発掘調査から前期難波宮からの「難波大道」が通っていたと推定されており、また「松原市史」ではこの付近の「大道」から旧西除川沿いの下高野街道を使ったショートカットの古道で竹ノ内街道に至るのでは、と示唆していて、今は舗装されたなんでもなさそうなこの道標の前の道に夢が広がります。(2008.3.25) (途切れた道・)



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