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途切れた道 2 下高野街道


大和川左岸(南)堤防上から北を望んだ大和川の風景  2007.9.28  撮影:今駒清則

 新川の開削後、下高野街道は新川の川原(河川敷)を歩いて(茶色の線・推定)渡し舟で向う岸へ渡りました。それから200年近く経って下高野橋(画面右)が架けられました。現在の橋は1970年改修のものです。


 この新川(新大和川・現在の大和川)が開削された当時、橋が架けられたのは大和橋地図だけでした。大和橋は大坂高麗橋から住吉大社を通り和歌山へ海岸沿いに通る紀州街道に架けられた公儀橋です。紀州徳川家や岸和田などの大名の参勤交代が通る道であり、住吉大社の頓宮が堺にあるように堺と住吉大社が密接な関係にありましたので新川の完成と同時に唯一橋が架けられたのです。そこで少し調べて見ましたが他の道、例えば高野街道でもやはり渡し舟を使っていました。高野街道は京都から生駒山麓、石川沿いに南下する東高野街道、湊がある堺から高野山へ向かう西高野街道が主な高野街道で、その中間にある中高野街道やこの話題の下高野街道は村から村を結んでいる道がいずれはどちらかの高野街道へ合流する、といった程度の街道なので、第一級の紀州街道とは比べものにはならない街道には橋が架けられることはなかったのです。

 新川計画中の1676(延宝4)年に、柏原村・船橋村から安立村までの村々が奉行に差出した陳情書には、治水や農業水利の悪化を縷々説明している外に

「新川御堀被為成候へハ、柏原村から手水橋迄之内、往還六筋其外ニも在々道筋数多御座候、然ハ往来之諸人難義可仕候御事」

 (新川を掘ると柏原村から紀州街道の手水橋までの六つの主要道路の外にも多くの道で通行に不便をきたします)というのもあります。新川開通後は危惧した通り、道も分断されて「難義」をしたのです。

 その後明治になって新川に橋が架けられれるようになり、1887(明治20)年の測量地図で確認できるのは、川下から大和川大橋、大和橋、高野大橋、明治橋、新大和橋だけで下高野橋はありません。(川を付け替えた柏原村付近を通る東高野街道の新大和橋地図は1874(明治7)年に初めて木橋が架けられました。)

 1908(明治41)年測量の地図にはこの下高野橋が記載されていますのでこの間に架けられたものでしょう。およそ200年近く渡し舟で往来していたことになります。ではこの渡しを何と呼んでいたのでしょうか。下高野街道にあるのですから「下高野の渡し」でしょうか。さらに調べて見ます。

 なお写真の手前は左岸の河川敷ですが、この河川敷は開削以前の農地がそのままに堤防の内側にあります。発掘するとすぐ下には古代・中世の遺跡(例:松原市・大和川今池遺跡の屋敷地跡が出てきます。新川の開削方法がこれで分かると思います。それとここには昭和末まで廃車の山と豚舎が不法占拠していましたが撤去されて現在は奇麗になっています。(2007.10.19)(続く)

追記:下高野橋は2009年から架替えの工事中で、現在隣接して橋脚を立てています。(2010.2.10)



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